福は内
鬼は外、福は内。
節分の豆まきにはお決まりのフレーズですね。地域によっては、福は内だけを言うものもあるようですが、日本の年中行事として古くから親しまれてきました。
行事の趣旨としては、節分の名のごとく、季節の変わり目を指しています。旧暦の立春前後は天候も安定せず、病や災害が起こりやすいことから、それらを鬼に見立てて追い払う行事となっています。宮中行事の「追儺」(ついな)という行事が、一般にも広まり日本中で大切な行事と位置付けられてきました。
鬼は外というフレーズには、昔の人たちの培ってきた感覚が含まれていると、私は思います。実は、鬼をやっつけるのではなくどこかに行ってもらう、という視点が「鬼は外」には含まれています。現代人なら邪魔者はやっつけてしまえ、となってしまいそうなものですが、昔の人は違います。災いは自然のもので、人間よりもずっとずっと大きな力を持っていると考えられてきたので、倒すというよりは共存するという考え方が根付いたのだと思います。だから、「いなくなれ。」ではなく「こっちに来ないで。」なのですね。
私が他のお寺にお手伝いに行ったとき「福は内」を、「不苦者有知」と当て字で表現することがあるということを知りました。漢文は得意ではないですが、苦しまざるは(者)知有りという書き下しになると思います。苦しまないということは、知があるということである。という意味で読むことが出来ます。
お釈迦さまが、自分を見つめ直すきっかけになったのは、人間には絶対に避けらない苦しみがあることに気づいたことでした。四苦といって生老病死の四字で表されます。人間として生まれたからには、生きること、老いること、病むこと、死ぬこと、から逃れることは出来ないということです。そんな状況と私たちはどんなふうに向き合っていけばよいのか、それが仏教の教えの出発点になっています。
最終的にお釈迦さまは、そういった状況を受け入れることのできる智慧(ちえ)に気づき、それを実践することによって、苦しみと付き合うことができると結論付けました。
私たち現代人は、変に知識を得たせいか、苦しいことや自分に不都合なことに遭遇すると、それを潰そうと躍起になります。鬼は外に通じますが、無くすのではなく、その受け入れ方を身に着けるということです。
普通、
仏教の教えは智慧(ちえ)と書き、「不苦者有知」の知とは違う字を使いますが、とらえ方によっては「不苦者有知」の当て字は仏教の教えを指しているとも読むことも出来そうです。
「不苦者有知」を実践すれば、自然とそれが「福は内」になるのかもしれません。