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写経会【毎月第4土曜日開催】

桜は散るから美しい

 

 日本の春といえば、桜とも言えるくらい日本人の心に桜は春の代名詞として根付いています。最近では海外の人たちにも人気があります。他にも日本人に愛されている花はたくさんありますが、桜はその中でも別格の存在であると言っても言い過ぎでは無いでしょう。

 1年間のうち、見頃は1週間にも満たないのに、桜の花は、なぜそこまで愛されるのでしょうか?理由はいろいろあると思いますが、一つには桜の有限性が関係していると思っています。

今しか見られないとか、今回だけとか、言われると何か特別なものに感じてしまうことはないでしょうか。あと何十年間見ることのできない皆既日食、数十年ぶりに来日した有名な絵画、深まる秋だけに見られる樹木の紅葉。いつもあるものより、終わりが決まっているものは、無意識のうちに引きつけられるものがあるはずです。

反対に、いつもあるものというのはそれほど気に留めないことが多いと思います。仮に桜の花が一年中咲いたとしたら、日本人は毎日のようにお花見をするでしょうか。恐らくしないでしょう。桜が散ってしまうのは寂しい気持ちもしますが、終わりがあるから美しいと感じるのでは無いでしょうか。

阿弥陀様のお経である阿弥陀経には「ガンジス川の砂粒の数程の仏様がいる」という表現が使われています。仏教ではこのように天文学的な数値や世界観がよく持ち出されます。一見すると、圧倒されてしまい一気に想像が追いつかなくなるのですが、よく考えてみるとその意味が分かってきます。1年の中の1週間だけ咲く桜の花が美しいように、天文学的な数値で表される宇宙の時間・空間からすれば、私たちの一生などというものは、桜の花とは比べ物にならないくらい短命で儚いものです。命の終わりは、誰しも直視することは難しく、怖くもあるものです。しかし、それがあるからこそ、今生きている瞬間は輝かしいと思えるのです。1週間を待たずに散り行く運命の中、懸命に咲き誇る桜と同じように、有限だからこそ私たちの人生は美しいと言えるのです。

般若心経ではこれを「色即是空」という言葉で示しています。直訳すると、見えるものは、実体がないのだという意味です。物事は常に移り変わり、同じ状態(実体)としてあり続けることは無いということです。終わりがあるから美しいと言ってきましたが、本来終わりのないものはありません。正確にいえば、終わりが見えやすいものは美しく感じやすいのです。ですから、視点を変えれば、物事はみな美しいのだと思います。

私たちは、心のどこかで明日が来ることが当たり前だと思っています。しかし、私たちの生きる1日1日は、桜の花のように特別で愛でるべきものなのです。お花見シーズンの到来です。今しか見ることのできない桜の花に、今しか生きることのできない自分を重ねて、たくさんの和歌が詠まれてきました。古くからの桜への共感が、今日まで続いている。それが桜の花を特別美しいと感じるルーツなのかもしれません。

 

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