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写経会【毎月第4週土曜日開催】

 いきなり難しいタイトルを立ててしまいましたが、なるべく簡単に難しいことを抜きに考えていきたいと思います。辞書には、「神や仏などある神聖なものを信じ尊ぶこと」とあります。

 

 信仰を説明するときによく使われるたとえがあります。地面に四角を書いて「ここは神聖な場所なのですよ。」と言われるとどうでしょう。そう言われて四角の中に立つとなんだか不思議な感覚を覚える人も中にはいます。雰囲気のあるお寺や、神社の境内に入ると何か日常と違った空気を感じたことのある方もいると思いますが、その感覚と原理は同じです。

 

 先の例にあった四角は神社やお寺とは違い、何もなかった地面に四角を書いているわけですから、四角の中に何かあるわけではないのです。でも、その四角のエリア、神聖であるという情報によって、何かがあるように感じているのです。

 

 地球最後の日にあなたは何をしますか?人生最後の日に何がしたいですか?という質問に答えたことがある方も多いと思います。普段忙しいからカップラーメンでもなんとも思わない食卓が、地球最後の日といわれると何か特別なものを食べなくてはいけない気にもなりますし、人生最後の日と言われれば何か特別なことをしたくなります。中には達観した人で、「私はいつも通りで構いません。」という人もいるかもしれません。しかし、そういう人もどこか頭の隅で最後というのを意識していつも通りという選択をしているはずです。

 

 このように、日常的なものに何か特別なものを感じるというのが信仰の原動力になっています。自分になんて価値がないと思う反面、私の命は何代ものご先祖がつないできた尊いバトンなのだ、と視点を変えればすごく特別なものになります。

私たち人間は一人では生きていけず、「誰か」「何か」と関係を持つことで初めて生きていくことが出来る。その関係性を仏教では縁と呼び、その中心に仏があると考えることで仏様に手を合わせるという特別な感覚が起こってきます。

 

「山川草木悉有仏性」とか「山川草木悉皆成仏」といった言葉があります。この世のものごとはすべて仏になる種を持っています。それを仏教では仏性(ぶっしょう)といいます。仏性は種ですから何かきっかけがなければ目が出ることはありません。そのきっかけのひとつが、先ほど例に挙げた日常のものを特別なものとして感じ取る考え方や視点です。

 

本来なら土に書いた四角のように、何もないところでもそれは可能なのですが、私たち人間は弱い生き物なので、どうしてもそれを徹底することが出来ません。でも、お寺や神社に行くと何か特別な感覚を得て、また新たな視点を取り戻すことができます。日本各地にお寺や神社、小さなお堂があります。こうした背景の一つには日常の中で特別なものを感じ信じる、信仰というものがはたらいていたのだと思います。

 

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