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写経会【毎月第4土曜日開催】

私の範囲

 

私の名前は○○です。と初対面で自己紹介するように、自分という存在は一番近い存在であると思います。自分は自分なのだからそれは疑いようもない事実ですが、実は仏教の分野や哲学の分野では自分の存在を認めることはかなり難しい問題の一つです。わざわざ簡単なことを難しく考える必要もないような気もしますが、今回は私の範囲について少し深堀していければと考えています。

 私は、顔があって髪の毛があって、目があって・・・と、私の範囲なんて言うまでもないように思えますがこう考えてみるとどうでしょうか?例えば、床屋さんや美容室で髪の毛を切ります。それまで自分と認識されていたものが自分から離れ自分とは言えなくなります。爪を切っても同じです。それまでは自分の爪だったものが、爪を切ってゴミ箱に捨てるとそれは私でなくなりますね。さらに言えば私たち人間は、毎日食べ物を食べて排泄をします。私でないものを体に取り入れ、一部を私にして、反対に必要でなくなった私を外部に捨てます。人間は60兆個の細胞で出来ていると言われそのすべてが2年半で入れ替わると言われています。極論を言えば2年半で別の人間(個体)になっているともいえるのです。

 別の人間になると言われると少し腑に落ちない気もしますが、確かに2年半もあれば考え方も変わりますし、体もだいぶ変化してくるので、そういった意味では納得が出来るところもあると思います。

 こういった細胞の入れ替わりのシステムから考えると、私たちの周りにあるものはこれから私になるかもしれないものと、今まで私であったものが存在し、それらは互いに関係性を持って循環していると考えられます。そう考えると私という存在は広がり、いまここにいる自分、だけでなく周りのものも自分自身の一部と考えることが出来ます。(あくまでも理論的には・・です。納得できるかどうかは置いておきましょう。)

 また、自分の目の前で困っている人がいたとします。これは、実際にはその人が困っているのではなく、目の前にいる人を見て、その映像を私たちの心が解釈して、様々な状況を踏まえてみた結果、その人が困っているのだと私たちの心が判断しているにすぎません。だから、困っている人を見て、実際に助けたいと思うか思わないか、さらには実際に助けるか助けないかは、当たり前ですがその現場を見た人によって判断が異なります。

 仏教的に解釈するとこの目の前の困っている人は他者ではなく、自分の心に映った自己の一部と考えます。ですから、回りくどい言い方になりますが、自分の心に映した、自分の中の相手を助けたいと思っているわけです。そうすると、助けたいと思った人、実際に助ける行動を起こすという現象は、自分自身の中の他者を助けているということになります。

情けは人のためならずという言葉があります。誤解して解釈されることも多い言葉ですがこの言葉は、「情けをかけるとその人のためにならないからしない方がよい」という意味ではなく「情けはその人のためにするのではなく自分のためにするのだからした方が良い」という意味になります。

自分の心の中に映る他者を、慈悲深い視点で見ることが出来るようになるということは、自分自身の心が慈悲に溢れていることとになります。

 

実際にそういわれてもしっくりこない方も多いかと思いますが、仏教は実践が伴って初めて完成します。私たちが生活の中で、少しずつそういった視点を取り入れることによって、仏教的な心の成長が目指せるのだと思います。