4月写経会資料です↓
十句観音経
観世音 南無仏 与仏有因 与仏有縁
仏法僧縁 常楽我浄 朝念観世音 暮念観世音
念念従心起 念念不離心
現代語訳
① 観世音菩薩に帰依します。
② 我々は仏と因縁でつながっています。
③ 仏法僧の三宝による縁によって「常楽我浄」を悟ります。
④ 朝にも夕べにも観世音菩薩を念じます。
⑤ 観世音菩薩を念じる想いは我々の心より起こり、また観世音菩薩を念じ続けて心を離れません。
解釈
②私たちが仏と因縁によってつながっているというのは、すべての人が仏の性質を有しているということを示しています。私たちの中にある仏の種をこの句によって認識します。
③仏の種は、仏(仏そのもの)・法(仏の智慧)・僧(仏道を歩む人)によって育ち、花開きます。
その状態を「常楽我浄」と言います。
「常」は永遠、「楽」は苦しみがないこと、「我」は自由なさま、「浄」は清らかな様子を表しています。
④⑤は常に観世音菩薩を念じることで仏の種に栄養を与え続けることを表しています。
なぜそんなにも念じるのでしょうか?
法華経の観世音菩薩普門品、通称「観音経」にもあるように、とにかく観音様の経には念ずるという言葉が良く出てきます。念じるというのは自分を知るという自己認識の究極であると言えます。
例えば、有名になりたいと念じるならば、そのひとの人となりは、そういうものであると分かります。
「みんなが幸せになりますように」と念じた場合、少し穿った見方をすると、2パターンの人間性を垣間見ることが出来ます。
・ただ純粋に皆の幸せを願っている
・皆の幸せを願う良い人だと、周りの人からそう見られたいがために願っている。
前者の方が良い人で、後者はなんだかあまり良い人に思えませんが、この場合良し悪しを気にする必要はありません。むしろ、本当の自己なんていうものはそういうもので、大体の人間の本質は汚いもののような気がします。本当の自分を汚い部分も含めてすべてを受け入れることで、私たちは私たちの中にある仏の種に気づくことが出来ます。しかし、私たちは様々な面を持っていてその時々によっても心が変化します。また、せっかく気づいた自分の内面も、汚い分も含めて受け入れるというのはなかなか大変なことです。だから、心離すことなく念じることが必要になってくるのだと私は解釈しています。
念じることによって自分の中の仏の種に気づく、仏法僧との縁を結ぶことでその種が育つ、そして「常楽我浄」へというのがこの経の神髄であると捉えています。
江戸時代頃に成立した後発の経、いわゆる「偽経」に分類される十句観音経ですが、念ずることの意味や意義をこれほど端的かつ的確に表しているとういう点で、現在でも多数の宗派で誦課されていることも容易に理解できます。