写経会の資料です↓
山家会
6月4日は天台宗の宗祖伝教大師最澄様の入滅(お亡くなりになった)された日です。天台宗では山家会と名付けられ祖師の教えや志を尊ぶ日となっています。
お釈迦様の最後の言葉と、伝教大師最澄様の最後の言葉に共通するものを感じたのでご紹介したいと思います。
お釈迦様が涅槃に入られる(亡くなる)際、最期に残した言葉に
「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい」
岩波文庫の『ブッダ 最後の旅』
というところがあります。
この文章の「怠ることなく」というのは「がんばれ」と同義に感じますが、
漢語では「不放逸」サンスクリットでは「アッパマーダappamada」となり、
語源を見ると漠然と精進しなさい、がんばりなさいと言っている言葉ではなさそうです。
「不放逸」には3つの意味が含まれています。
① 常に現状に気づくこと:
自分の心や体の状態、周りの状況などを注意深く観察し、怠けや油断を自覚すること。
② 集中力を高めること:
瞑想や座禅などの実践を通して、集中力を高め、現在の行動に意識を向けること。
③ 善行に励むこと:
仏道を歩むために、積極的に善行を行い、怠らないこと。
これらの3つの「不放逸」の意味を踏まえるとお釈迦様の言った「怠ることなく」という真意がつかめるような気がします。
伝教大師最澄様の最後の言葉の中に「努めよ、努めよ」という一節があります。仏教の教えで満ち溢れた国にしたい、仏教の力ですべての人が救われて欲しい。理想論だと一蹴されてしまうような仏国土を愚直に目指した最澄様らしいお言葉です。
伝教大師の「努めよ 努めよ」も、お釈迦様の「不放逸」と同じことを伝えているのだと思います。
知ってか知らずしてか・・いや伝教大師様のことですから『大パリニッバーナ経(大般涅槃経)』に触れ仏陀の最後のお言葉も踏まえて敢えて「努めよ」と表現した可能性もあるでしょう。ただ漠然と努力しなさいというのではなく、気づきを忘れないでほしいというニュアンスがあると考えることが出来ます。
仏の教えに触れると、「こういう見方もあるんだ」とか「こんな視点があったのか」という気付を与えられます。そういう気付きを貪欲に求めていく。そういう後進の者たちを鼓舞するための言葉、それが「努めよ」という表現だったのかもしれません。